映画『ピアノマニア』(2009年)

起こすだけでも3人がかり
起こすだけでも3人がかり

「スポットライトを浴びるピアニストではなく、彼らを陰で支える調律師の存在に光を当てる異色ドキュメンタリー。次々と高いハードルを課す完璧主義者のピアニストと、職人としての意地とプライドを懸けて、無理難題を丹念にクリアする、ピアノの老舗ブランド・スタインウェイ社の技術主任を務める、ドイツ人調律師シュテファン。究極の響きを求めて、両者一歩も譲らぬ“ピアノマニア”同士の共同作業の模様が、時に緊迫した、時に平穏な空気の中で映し出されてゆく」

紹介文だけ読むと、トップ調律師に焦点を当てたというフックはあるものの、まあよくある音楽ドキュメンタリーを想像すると思う。ああ、シュテファンはこういう経歴でこんな生き方をしてるんだ、あのピアニストってリハーサルではこういう性格なんだ、ピアノのあそこをこうするとああいう音になるんだ、いろいろがんばってこんな素敵な音楽が出来上がるんだ、といった感じの。

そんなつもりでいたもんだから、実際に観たときの異様さに圧倒された。じつはこの映画、シュテファンという調律師自身であったり、有名ピアニストの誰々だとか、さらには音楽自体にも、あまり関心がない。そういったパーソナルな話を極力そぎ落としてまで徹底的に描いたのは、「物としてのピアノ」。「楽器としてのピアノ」ですらない。ピアノの物体性。マシーンとしてのピアノ。

ピアノに殺される

まず鮮明に感じられるのがピアノの巨大さ。人間がピアノを動かしたり運んだりする場面がいくつもあり、恐怖を覚えるほどの重量感が伝わってくる。普段目にするときは必ず静止しているピアノが、動いたり、これから動く可能性があるというだけで、ここまで緊張感を生むのかと。死人が出るんじゃないかと本気で思った。

起こすだけでも3人がかり

映画開始20分ほどで、主題提起とも思えるようなシーンが出てくる。主人公の調律師が勉強のためにクラヴィコードやチェンバロなど古楽器の専門家に会いに行くのだが、そこでその専門家が、苦しいとも悲しいともとれる表情で切々と語る。

現代のコンサートピアノは魅惑の音楽マシーンだ。4000人規模のホールで使うとしたらそれ以外の選択肢はない。でもご存知のように、音量を増すことで繊細な音色が犠牲になる。自分で弦を張ろうものなら流血沙汰だし、運搬すれば3人がかり。そんな粗暴なマシーンには……どこか非人間的なものを感じるようになったんだ。

この直後に、何やら工業的な機械に高速打鍵されている剥き出しのピアノとその悪夢的な騒音が渦巻く、ちょっとしたホラー映像が編集されている。なんて恐ろしいんだ、ピアノ!

めまい

支配するのかされるのか

そんな巨大マシーンを制御しようとする人間の必死さはとどまるところを知らない。張りたての弦を馴染ませるために、ドリルにテニスボールを取り付けたお手製の工具で弦を繰り返し叩きつける。動作を止めてからもずっと続く残響はまるでエンジン音。

かと思えば、音域ごとの響き方を細かく操作するために反射板を自作し、天板を取り払ったピアノの上に鱗のように何枚も並べてみる。それでなくとも不気味に見えはじめてきたピアノが、なおさら不気味だ。

ちょっとしたシドニーオペラハウス

お口直しのように登場するコメディアン・ピアニストも、音楽ユーモアというよりはピアノの物体的側面を脱臼していくジョークを披露。カンフーチョップで叩くベートーヴェン、木製の和音棒で型押しするラフマニノフ、後頭部でペダリングをしながら仰向けで弾くサティ。そして新作ギャグ用に開発したという、脚の1本をヴァイオリンにすげ替えた不思議なフランケンピアノ。重たいピアノが華奢なヴァイオリンに支えられているのを見たときの本能的な不安感。同じ楽器というものでありながら物体的な含意がここまで違うのかと再確認できる。ある意味、物体としてのピアノの真逆に位置する楽器がヴァイオリンなのかもしれない。

型押しラフマニノフ

もちろん細部も厳しい

マクロの凶暴とミクロの横暴が共存しているのがピアノ。交換のために発注したハンマーを一目見て、「まさか……! なんてこった」と慌てふためく調律師。何かと思えば「ハンマーの幅が0.7ミリほど狭い」。それぐらい許そうよ、ピアノ!

むかし一緒に作業していた技師が響板に溜まっていた埃を拾い上げたので、「今すぐ元に戻しなさい」と指示したというエピソードも。「なんでも音を変えてしまうんだ。埃でもね」

大から小までピアノに翻弄される人間。ピアノを前にした人間の無力さが滲みる。演奏者がとんち問題のように積み重ねてくる要求に応えようとあらゆる手段で調整を行っても、返ってくる反応は「素晴らしい! でも……」の繰り返し。奇跡的に「ずっと夢みていた音」と喜んでもらえる調整が実現できても、次の日にはもう違う音になってしまう。目指すものは常に変化していて、完成したものが一定であり続けることはない。

ピアノに飲み込まれる

ピアノに「音楽」なし

しかし何より新鮮なのは、映画中の音の扱いだろう。マシーンとしてのピアノが発する機械的なノイズと、音源としてのピアノを鳴らしたときの音色と、楽器としてのピアノを奏でたときの音楽が、音として同等に捉えられるように構成されている。つまり、最終的な成果物として作られる「音楽」だけが特別なのではない。ピアノの前には、どれも等しく「音」なのである。