ChatGPT活用法のひとつとして、外国語の会話練習をするというものがある。たしかに何の話でも相手をしてくれて便利なのだが、しばらくするとさすがにパターンが見え透いてきてしまう。「知ってますよアピール」+「よかったね」+「会話を続けるための質問」というテンプレにだいたい収斂していく。
私「昨日○○のコンサートに行って××だった」
ChatGPT「はいはい、世界的な△△の○○ですね。昔から××なことで有名ですね。それは思い出に残るいい経験でしたね! ほかにはどんなコンサートに行ったことがあるんですか?」
といった具合に。
このようなやりとりが私に何をもたらすかというと、「ふだん友達と会話しているときにChatGPT以上の受け答えができているか?」という疑問である。
ChatGPTより面白い会話相手であるには何が必要か。まず、関連情報の羅列ではない。そんな調べれば誰でもわかるようなことを今ここで話す意味はないだろう。どちらかというと、ほとんど関係ないけどギリ関係あるぐらいの遠い話題をアクロバティックにつなげるほうが、人間ならでは自由な連想能力が感じとれて、ああ面白い人間と会話しているなあと思うはずだ。
次に必要なのは、ただ相手の話を引き出すのではなく、いかに自分の話を繰り広げるかということだろう。ChatGPTと会話をしてみればすぐわかるように、相手がしたそうな話を延々と引き出して相槌を打つのはべらぼうに簡単である。話を「聞いてあげる」ことで会話相手としての価値を提供できる時代は終わった。そんな小手先の質問つなぎではなく、本当に面白い「自分の話」をどれだけ持っているかが人間としての勝負所だ。意図的な設計なのだろうが、ChatGPTには何十年の記憶と体験の蓄積であるような連続的人格がないため、「自分の話」を持っていない。相手に応じて変化をつけつつ、飽きさせないように反応をうかがいながら堂々と自分の話ができれば、ChatGPTに勝つのは難しくない。
結局のところ、面白い会話をそうたらしめてるのはある種の偶発性、予測不可能性であり、想像の範囲内の収まってしまう会話はどこまでいってもAIレベルなんだと思う。つまり、大規模コーパスを「この語順の次にはどのトークンが来そうか」ではなく、「次にどのトークンが来なさそうか」という方向に利用することが鍵なのだろう。
さて、これでとりあえずはChatGPTに勝てそうではあるが……
コロナ禍で本格的な自粛ムードが漂っていたころ、まったく友達と会えず、さまざまな交友関係がきれいにストップしてしまった。自分は自宅に籠もってひとりで過ごすことがわりと平気な人間だと思っていたが、さすがにこの時期はすごく友達と会いたいという気持ちになった。
しかし驚くことに、友達と「会話をしたい」という気は一切起きなかった。こういう時代なので、友達と連絡が取りたい、話がしたいと思えばすぐにチャットでもZoomでもできるのに、自分からそういったコンタクトをすることは結局一度もなかった。
私の友達はみんな人生も思考も充実していて会えば当然話は弾むのだが、それを主目的としてわざわざ会っていたのではないことを認識させられた。むしろ会うことそれ自体が目的であり、時間を埋めるための一手段として会話をしているだけなんだと。
友情の深まりを感じる瞬間として、お互い沈黙して何もしない時間を心地よいと感じられるかというのがある。話をしはじめたらめちゃくちゃ面白い二人が、わざわざ都合をつけて会って、お互いを独り占めしながら、黙って、何もせず、何も生み出さず、ただ座っている。これ以上贅沢な時間の使い方があるだろうか。
先月初めてバンコクに行ったとき、ワット・アルンに向かうがらがらの船の上で、友達と一列ずつ席を陣取って前後に座り、顔を合わせるわけでもなく、言葉を交わすわけでもなく、日が傾きかけたチャオプラヤ川を静かに渡りながら、そんなことを考えていた。
今のChatGPTには無理でも、人間より面白い会話のできるAIはそのうちいつか現れてしまうのかもしれない。ただ、友達に与えられる最大の価値が「沈黙」なのだとしたら、AIにその座を奪われることはない気がする。